アニログ小説「ミヅメ」Episode4

本編

【第四章:『視線』】

 彼氏から相談を持ち掛けられた時、私は正直、気がすすみませんでした。

いくら彼が懇意にしている後輩といえど、そんな奇妙な言動をしている男性の家に上がるなど、すぐにでも断りたい気持ちでした。

それに、私は専門家でも何でもありません。

確かに、“そういった類のもの”が視えることは事実ですから、相手が困っているのであれば、できる範囲の助言くらいはしようと思います。

でも、話を聞くと、先方は別に困っている様子ではないそうです。

ならば、深く関わらず、そっとしておけばいいのにと私は思いました。

しかし彼は、どうしてもその後輩が心配なのだと言って聞かなかったのです。

 彼が言う後輩の須藤君は、彼が在籍する文学サークルに所属していたそうで、いまでは大学を中退してフリーターをしているそうです。

須藤君と会うようになって、彼は少し明るくなったように思います。

就職活動が上手くいかず、一つも内定をもらえていない彼はすっかり塞ぎ込んでいたのですが、そんな時に思い付きで連絡をしてみたのが須藤君だったそうです。

おそらく彼の心情としては、先に挫折した人の生活がどうなっているのかを知り、少しでも自分の現状をマシだと思いたかったのでしょう。

正直なところ、あまり感心できる動機ではありません。

しかし、意外にも彼は、久しぶりに再会した須藤君とは馬が合ったらしく、その後も積極的に連絡をとり、しばしば遊びに行くようになりました。

以前と比べて笑顔も増え、私は安堵していました。

須藤君の部屋には書籍がたくさんあるそうで、彼はそこにあった本の話や、須藤君と交わした会話の内容などを、私によく語ってくれました。

彼が本当に楽しそうに話すので、良い後輩と巡り合えたことを私も喜ばしく思いました。

同じく読書好きの私としても、最近では須藤君のコレクションには興味が湧いてくるほどでした。

しかし、話を聞いていると妙な点が一つありました。

須藤君には、数か月前から同棲しているミヅメさんという恋人がいるらしいのですが、何度となく彼の部屋に行っても、ミヅメさんと会うことがないそうです。

おまけに、部屋には女性が暮らしているような形跡が全くなく、どこからどう見ても男性の一人暮らしの部屋なのだそうです。

「最初は二次元の彼女でも居るのかと思ったよ。ほら、よく“嫁”って言ったりするだろ?」

初めは彼もそんなふうに話していたのですが、どうも現状は違うようです。

彼いわく、イマジナリーフレンドのようなものが見えているのではないか、とのことでした。

須藤君のほうも、ミヅメさんについてはほとんど言及しないようで、彼が彼女の特徴を尋ねても、「手が綺麗である」ということと、「とにかく恥ずかしがり屋だ」ということくらいしか教えてくれないようでした。

そんな様子なので、彼はそれ以上詮索するのをやめたそうです。

須藤君の部屋で過ごす時間が次第に居心地よくなっていたので、むしろミヅメさんが居ないほうが、彼としては気を遣わずに済むからです。

そんなある日、彼はその部屋で奇妙な体験をしたと言って、私に泣きついてきました。

いつものように須藤君の部屋で読書をしていると、急に悪寒が走り、背中に手の平のようなものが触れる感覚がしたと言います。

しかしそれは、人間の手にしては指が異様に長く、手の“ひら”にあたる部分の面積は異常に小さかったそうです。

まるで巨大な蜘蛛が背中に張り付いたようだったと彼は言います。

突然の感覚に、彼は固まって声も出せなかったそうです。

彼は本棚を背にして座っており、自分と棚の間には人が入り込むスペースはありません。

彼の背中に触れているその手は、洋服越しでもひんやりと冷たいのがわかり、少しずつ爪を立ててきたそうです。

じわじわと全身に広がる恐怖をこらえ、彼がやっとの思いで須藤君に声をかけようとした瞬間、背中の感覚は消えたそうです。

のけぞるように本棚から離れ、振り返って確認しても、そこには本が並んでいるだけで何もありません。

ただ、本の隙間に見える影が、そこだけ妙に黒々としていたのを覚えているそうです。

「先輩、どうかしましたか?」

「…いや、ちょっと用事を思い出した。」

そう言って彼は部屋を飛び出し、私のもとに来くるなり泣きそうな顔で事情を説明してくれました。

「あの部屋には何かがいる。よくわからないけど、須藤は取り憑かれてるんじゃないか?お願いだ。一度でいいから、俺と一緒に須藤の部屋に来てくれ。」

「でも、仮にそうだとしても、私は視ることしかできないし、ちゃんとした人にお祓いしてもらったほうがいいんじゃない?」

「急にそんなことを言っても、須藤は絶対に受け入れない。俺にはわかる。でも俺と繋がりがある摩耶なら、部屋に上げてもらえるかもしれない。頼む! 視てくれるだけでいいから」

正直、私は関わりたくありませんでした。

しかし彼は、大切な後輩だから、どうしても私に協力してほしいと懇願します。

気はすすみませんでしたが、よくよく考えてみれば、その部屋に頻繁に出入りしている彼だって、その“何か”に影響を受けている可能性もあります。

心配の感情が勝り、結局、私は須藤君の部屋へ行くことになります。

 初めて見た須藤君の顔は印象的でした。

ひどく頬がこけて、骨と皮だけのように痩せており、目の下には大きなクマができていました。

それでも目つきだけはギョロリと鋭く、笑顔で会釈をされている間も若干の緊張感がありました。

玄関から中に上がらせてもらうと、まず最初に匂いが気になりました。

家の中は汚れているわけではなく、むしろ清潔に保たれているのがわかります。

それなのに、ごくわずかですが湿り気を帯びた腐敗臭に近いものを感じました。

そしてその中に、香水のような匂いも混じっています。

これは、“そういった感覚”を持っていない人には、気が付かないであろう匂いでした。

部屋に案内されると一番に、壁際に並んだ大きな本棚が目に入ります。

まるでワンルームの図書室のようでした。

私は少しばかりテンションが上がってしまいましたが、本棚を端からゆっくり眺めていくうちに、すぐに違和感を覚えました。

大量の書籍は本棚だけではなく、いくつか床にも積み上げられているのですが、本棚の一段ずつにはわずかにまだ隙間があります。

すべての段に、数冊の本を差し込むスペースが点在しているのです。

それなのに、あえて床に本を置いているのは疑問でした。

他の生活用具が綺麗に整頓されていることからも、須藤君が几帳面な性格であることはわかります。

だからなおさら不自然だったのです。

 私と彼氏は、和やかに会話を進めていきました。

私が明治文学に興味があることを告げると、初めは緊張しているようだった須藤君も、次第に口数や笑顔の数が増えてきました。

彼は知識も豊富で、話す言葉からも教養が感じられました。

不器用ですが自頭もよくて素直な子なのでしょう。

彼氏が気に入るのも頷けました。

須藤君からは変な空気は感じられず、むしろ、まだ世間を知らない真っ白な気を纏っているように感じました。

ところが、私が須藤君と打ち解けてきたと感じたあたりから、異変は起きました。

部屋のいたるところから視線を感じるのです。

それは複数ということではなく、視線の主である“何か”が移動して、あらゆる角度から私を監視しているようでした。

彼氏と須藤君は気が付いていない様子です。

私は彼らに悟られないよう、視線の出所を探しました。

するとどうやら、棚に並んだ本の隙間から、視線は注がれています。

間違いありませんでした。

隙間の向こうに、“何か”がいます。しかもその“何か”は、明らかに私に対して負の感情を表しています。

にわかには信じられませんでしたが、これがミヅメさんだと、直感しました。

私は、並んだ本に目を通す振りをしながら、須藤君に気づかれないよう、時間をかけて一つずつ隙間を埋めていきました。

ミヅメさんには気の毒に思いましたが、こうすることで彼女がどんな反応をするのか、知りたかったのです。

ようやくすべての隙間を埋め終えると、視線は感じなくなりました。

私が安堵したのも束の間、何気なく須藤君のほうを見て絶句しました。

彼の肩に白い手が乗っているのです。その手は指が異様に長く、鋭く伸びた爪は赤いマニキュアが塗ってあります。

須藤君は気が付いていない様子で彼氏と話をしています。

彼氏もまた、何も見えていないようでした。

私は手を視界の端にとらえながら、平静を装っていました。

すると、私が瞬きをした瞬間に手は消えました。

このとき私は、須藤君を救わなければならないと確信し、彼から本を一冊借りることにしました。

再びこの部屋に来る口実をつくったのです。

その時から私はこの部屋を出るまで、ずっと頭のすぐ後ろから視線を感じ続けたのでした。

ひとしきり時間を過ごし、解散の流れになりました。

私は立ち上がろうとした時に背中を強く押され、バランスを崩しました。

ほんの一瞬の出来事でしたが、冷たい手の平が背中に触れたことだけはわかりました。

もちろん、振り返ってもそこには何もおらず、私のバッグが半開きの状態で置いてあるだけでした。

アパートを出てから、私と彼氏はしばらく無言で歩きました。

駅に向かいながら、路地をいくつか曲がったところで、ようやく彼氏が口を開きました。

「どう? 何か感じた?」

「逆に、あなたは何も感じないの?」

「ぶっちゃけ、今日は何もなかったな。背後には気をつけていたけど」

「3日経ったら須藤君に連絡してちょうだい。私が本を返したがってるって。たぶん最初は無視されるだろうけど、何がなんでも粘ってね」

「どういうことだよ?」

「彼は完全に魅入られてる。このままじゃ精神をやられて廃人になっちゃうから、その前に彼をあの部屋から連れ出さないと」

彼氏が仕切りに説明を求めてきましたが、正直なところ、私にもあそこにいたモノが何なのか、わかってはいませんでした。

しかし、純粋な若者の人生が、この世のものではない何かに奪われようとしているのは見過ごす訳にいきません。

「塩を買って帰りましょう。お互い常備しておいたほうがいいわ。あと、プリン食べたい」

腑に落ちない様子の彼氏の手を引き、私たちは帰路につきました。

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