本編
【最終章:『美爪』】
あの夜のことを思い出す。
何もかも手放そうと思った日のことを。
すべてにおいて自信を失った僕に残っていたのは、この気持ちが誰にも共感してもらえないという自信だった。
人から見れば、僕が何に苦しんでいるのかまったく理解できないだろう。
でも悩みなんてそんなものだ。
当人の世界では、その悩みが全てなのだ。
家族のもとを離れ、大学を離れ、社会からも離脱した僕は、ついに自分の人生も手放すことにした。
浴槽に湯をはり、服のまま浸かって包丁を握りしめる。
それを左手首に当てがったまま、何時間も動けずにいた。
どれほどの時間が経過しただろう。
お湯は完全に冷め、全身に寒気を感じ始めた頃、ようやく思考が停止し、僕は踏み切れた。
身体は寒いのに、左の手首だけ瞬時に熱くなった。
痛みと寒気で全身が震える。
切ってからそれほど時間は経過してないように思うが、意識が朦朧としてきた。もう少しだ。もう少しで楽になれる。
この苦痛な時間が早く終わってほしい。
そんなふうに必死で考えていたら、傷口を誰かに握られた。
見ると、浴槽の排水溝から白く細い手が伸び、僕の左手首を掴んでいた。
これが、僕とミヅメの出会いだった。
ミヅメと会えたから、僕の人生は再び動き出した。
ミヅメのお陰で、生きながらえてこれたのだ。
あれから約3ヵ月。
よく、恋人の倦怠期は3ヵ月でやってくるなんて言うが、まさにその時期だろうか。
しかし原因は僕にある。
先輩たちを家に上げた日から、ミヅメは全く姿を現さなくなってしまった。
食事も喉を通らず、何一つ行動意欲もわかない。
まるで、ミヅメに出会う前に戻ったようだった。
何日も部屋の真ん中に座って、室内にある隙間を眺めている。
スマホには無数の着信やメッセージが届いているようだったが、確認はしていない。
おそらく、バイト先か先輩だろう。どうでもよかった。
ミヅメが出てきて仲直りするまでは、家から出ないと決めたのだから。
10 日ほど経っただろうか。
もはや昼夜の認識もなくなってきた。
部屋はずっと遮光カーテンを閉め切って間接照明にしているし、時間も確認していないので、完全に体内のリズムを失っている。
食欲は無いが、忘れた頃に空腹が襲ってきて、冷蔵庫の中のものを消費しているうちに、それも尽きてしまった。
ここ3日ほどは水道水とコーヒーしか口にしていない。
目が霞み、頭もボーっとしている。眠りたくても眠れない。
何度もミヅメの名前を呼んでは、変化のない室内に絶望する。その繰り返しである。
もしかしたら、自分はこのまま眠るように死ねるんじゃないかという考えに至った。
すると心なしか気分は軽くなり、くよくよした思いがスッと消えていくのを感じた。
それもいいかもしれない。
もともと、自分は死のうとしていたのだ。
何も結果は変わらないじゃないか。
短い間だったが、死ぬ前にミヅメという存在に出会えて、僕は幸せに過ごすことができた。
この3ヵ月は、僕の人生に神様がくれた最後のご褒美だったのだと、そう思えた。
先輩からの着信があった。テーブルの上で震えるスマホを横目で見ながら、ぼんやりと考えを巡らせた。
最期くらい、お世話になった人にお礼を言うのも悪くないだろうと、気まぐれで僕は電話に出てしまった。
「おう、須藤。お前……元気か?」
「先輩、何度も連絡くださってたのに、すみませんでした」
「気にしなくていいよ。それよりさ、こないだ摩耶が借りた本、返したいんだけど、会えるかな?」
「もう誰とも会いたくないんです。今までありがとうございました。その本は差し上げますよ」
「ちょっと待ってくれ! そんなこと言わずにさ、俺いま、お前ん家の前まで来てんだよ。本渡すだけだから、少しだけ顔見せてくれよ!」
僕が玄関のほうを見ると、ドアを叩く音がした。
続いて、先輩はドアノブを回しているようだったが、もちろん鍵がかけてあるため開かない。
「僕、風呂にも入ってないんで臭いですよ? ポストに入れといてください」
「いや、匂いとか気にしないから、そこを何とか… え?」
「どうしました?」
「お前いま、ミヅメさんと一緒に居るのか?」
「いえ。ミヅメは居ませんけど」
「お前の音声に交じって、笑い声が聞こえるぞ。女の人の」
先輩の言葉に、僕は嬉しくなった。ミヅメが反応してくれている。
もしかしたら、出てきてくれるかもしれない。
我ながら単純な思考回路だが、急に気持ちが高ぶり、僕は立ち上がっていた。
「ミヅメ! ミヅメ! どこに居るんだ?」
呼びかけてみたが、当然返事はない。ミヅメの笑い声なんて僕も聞いたことがないのに、先輩だけズルいと思った。
「落ち着け、須藤! とにかくドアを開けてくれ」
スマホから先輩の声が漏れてくる。
ミヅメに会えるチャンスかもしれないというのに、しつこく邪魔をしてくる先輩にイラ立ちを覚えた。
通話を切ってもドアを叩く音は続いており、気が散って仕方がない。
ここは一度、望み通り顔でも見せて帰ってもらうほうが早いかと思い、玄関を開けることにした。
ドアを開けると、そこに居たのは摩耶さんだった。
「摩耶さん…、どうしてここに? 先輩は?」
摩耶さんは何も言わずに玄関に踏み込んでくると、いきなり、両手で僕の顔を引き寄せた。
両肩に腕を回され、頭を抱えられる形で、僕は強く抱きしめられた。
突然のことに理解が追いつかない。
「落ち着いて聞いて。私はあなたの味方だから。このまま、ここを出ましょう」
僕の頭を撫でながら、摩耶さんが耳元で囁く。
言葉の意味を理解するのに少し時間がかかったが、すぐに僕は我に返った。
慌てて摩耶さんを押しのける。
「嫌です! 僕に関わらないでください」
「駄目! とにかく今は私についてきて!」
後ずさる僕を追って、摩耶さんは部屋に上がってきた。
その様子は、先日会った穏やかな雰囲気の摩耶さんとは別人のように見え、細く小柄な彼女に、僕はなぜか恐怖を覚えた。
漠然と、目の前の人物が敵であると思えたのだ。
怒る母から逃げる幼い子供のように、僕は部屋の隅まで逃げ、膝を抱えてうずくまった。
自然と体がそう動くのだった。
摩耶さんは部屋に入るなり、目を剥いて周囲を見回している。
「この部屋…、どうしたの?」
きっと摩耶さんは、僕が新たに作った隙間のことを言っているのだろう。
ミヅメの手がどこからでも出てこられるように、本棚だけでなく、床や、壁面、天井にも、僕は可能な限り穴をあけて、“隙間”を作っていた。
「ミヅメのためです。ミヅメは、いつも隙間から現れるんです。これだけあれば、好きなところから手を出せるじゃないですか」
「ここに居ても、あなたがミヅメさんと結ばれることはないわ」
摩耶さんはゆっくりと近づいてきた。
間接照明の明かりが、彼女の顔を照らしている。
震えながら見た彼女の顔は、美しかった。摩耶さんの手が僕の肩に触れる。
「触るな! ミヅメからは離れない!!」
僕が叫んだ瞬間、摩耶さんがバランスを崩し、床に突っ伏すように倒れた。
見ると、床に開けた隙間からミヅメの手が伸び、摩耶さんの右足首を引っ張っていた。
「須藤君! 早く外へ!」
摩耶さんは僕の腕を掴んで引き寄せようとするが、ミヅメに足を引かれ、思うように力を込められないようだ。
ミヅメの長い指が、しっかりと摩耶さんの足首に巻き付いているのが見えた。
「摩耶さん、僕はもう大丈夫です。あなたのお陰で、またミヅメに会えましたから」
「何を言ってるの! こんな化け物相手に!」
「僕たちの世界を、邪魔しないでください」
すると、僕の周囲にある隙間からミヅメの手が何本も伸びてきて、僕の体に絡みついた。
無数の手に、全身を撫で回される。
こんなにもミヅメに愛してもらえるなんて、僕は嬉しかった。
「須藤君!」
巻き付くミヅメの腕の上から、摩耶さんが僕にしがみついてきた。
彼女は僕に寄り掛かるような態勢になり、体重をかけてくる。
彼女の息遣いを感じる。摩耶さんは必死に手を伸ばしてきて、僕の肩を掴んだ。
すると、もう片方の手でポケットから小瓶のようなものを取り出したのが見えた。
摩耶さんは小瓶のキャップを親指で外し、中の液体を口に含むと、力強く僕を引き寄せて、キスをした。
摩耶さんの口から流れ込んできたのは、塩水だった。
思わず飲み込んでしまった僕は、むせ返って咳が止まらなかった。そのまま猛烈な吐き気を感じる。
胃に何も入っていないはずなのに、内臓が裏返るような感覚がして、何かが僕の口から出てきた。
ミヅメだった。ミヅメの手が、僕の口から伸びている。
顎が外れそうになり、頭蓋骨に強烈な痛みを感じる。
呼吸もできないまま、かろうじて開けた目の先に見えたのは、粘液にまみれた青白い手が摩耶さんの首を絞めている光景だった。
摩耶さんを助けたかったが、僕の体はミヅメに押さえつけられていて身動きがとれず、口から伸びた手の動きも抑制することができない。
摩耶さんは顔をゆがめながら、僕に視線を向けてきた。
目が合った瞬間、彼女が少し微笑んだような気がした。
こんな状況にも関わらず、また僕は、“美しい”と思ってしまった。
次の瞬間、自分の意志とは無関係に、喉の奥から断末魔のような金切り声が込み上げてきた。
喉を塞がれているので、その声はくぐもり、聞くに堪えない醜い音になった。
苦しさが限界に近づき、意識が遠のく寸前のところで、急に体が解放され呼吸もできるようになった。
僕と摩耶さんはへたり込むようにして、しばらく息を整えていた。
ミヅメの手は、一本残らず消え去っていた。
「もう大丈夫。あなたが無事で良かった」
摩耶さんが、再び僕を抱きしめてくれた。
このとき僕は、自分が泣いていることに気が付く。
なぜ涙が流れたのか、自分でもわからなかった。
アパートを出ると、先輩がタクシーを呼んで待っていてくれた。
「摩耶には止められていたんだけど、あと1分待って出てこなかったら、俺も突入していたよ」先輩が笑って言った。
どうやら僕は、2人に多大な迷惑をかけてしまったようだ。
「とりあえず今日は私たちの家で休みなさい。明日、3人でお祓いに行きましょう」
摩耶さんの言葉に促され、タクシーで先輩の家に向かう。
運転手が終始顔をしかめていたが、きっと僕の体臭が酷かったせいだろう。
ここでもまた、迷惑をかけてしまった。
座席に身を沈めて目を閉じる。
すると一気に疲れが押し寄せてきて、何も考えることができなくなった。
久しぶりに浴びた日光が、目をつむっていてもまぶしかったのを覚えている。
次の日、摩耶さんが紹介してくれた神社で3人揃ってお祓いを受けたあと、ラーメン屋で食事をし、僕の今後について話し合った。
「須藤がそれでいいなら、俺たちは別に反対しないけど、ちょっと寂しくなるな」
「実家には母しか居ないんで、たぶん僕が帰ったら、喜んでくれると思います」
「お母さんを大事にしてあげてね。でも、あなたはまだ若いんだから、自分のやりたいことは、ちゃんとやるのよ」
「はい。まずは地元で、就職先でも探してみようと思います」
本音を言うと、実家に帰りたいとは思っていなかったし、ましてやすぐに働ける自信もなかった。
しかし、そうでも言わないと、2人にまた心配をかけてしまうと思ったので、僕はなるべく明るく、強がってみせた。
それと、地元に帰ると決めたのにはもう一つ理由がある。
このまま先輩たちとの付き合いを続けていたら、僕は絶対に摩耶さんを意識してしまうと思ったのだ。
彼女への想いを、抑えきれなくなってしまう、と。
穴だらけにしてしまった部屋は当然、修繕費用を請求されることになり、貯金のなかった僕は実家の母に泣きついた。
最初は激怒していた母だったが、僕が帰ることを告げると、引っ越し費用も含めて建て替えてくれた。
もちろん働いて返す約束だ。
引っ越しの荷造りなどは、全て業者にお願いした。
引っ越し当日、どうしてもまたあの部屋に入らなければならなかったので、僕は最後の頼みで先輩と摩耶さんに同行してもらった。
少しずつ荷物が運び出されていくのを見守っていると、先輩が言った。
「そういえば、手が冷たい人は心が温かいって言うよな。俺の背中に触れた手、すごく冷たかったけど…」
僕と摩耶さんは次の言葉を待っていたが、先輩はそれ以上なにも言わなかった。
「人の場合はね」
摩耶さんが付け加えた。
結局、あの部屋にいたモノが何だったのかは、わからないままだ。
僕がミヅメと呼んでいた存在が、その後どうなったかも確認する方法はない。
しかし事実として、あの部屋はまだ存在する。
こんなこと、誰かに話したところで頭がおかしいと思われるだけだろうから、ここだけの話に留めておく。
高速バスに揺られながら、イヤホンをつけてクラシックを流す。
僕は、自分がまだ生きていることを実感した。
~終~
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