本編
【二章:夏空】
梅雨の頃、高校二年ともなると受験のための夏期講習の話題が出てくる。
カナと同じ予備校の夏期講習のパンフレットを取り寄せた。
受験先は決まっていないけれど、まわりが勉強するなら私もしておいたほうがいいと思ったからだ。
「天子はどうするの?」
スマホのメッセージアプリで尋ねると、天子からレスが来た。
「私、天使だもん。大学は受験しないよ」
一緒に天使のスタンプもついてくる。
高校はそれなりの進学校だ。受験をしない子は少ない。天子は本当に受験しないんだろうか。
昼食は天子が渋るので、カナたちと一緒に食べている。
昨日のドラマの話とか、流行りの動画の話とか、あまり面白い話題はない。
「夏期講習は、陽菜も私たちと一緒ね」
カナがお弁当箱をつつきながら言った。私は頷く。
「そのつもり。基礎コースでしょ?」
「うん。じゃあ、申し込もう。ご両親の了解も得ておいてね」
カナの言葉に私は咀嚼しながら、もう一度頷いた。
と、高校二年になってから仲間になったハルという子が声をひそめて話しだした。
「神山さんは受験しないんだってね」
天子の情報をどうやって手に入れてるんだろうか。いじめてるくせに。
「そうなの?」
カナが眉を寄せる。ハルはヒソヒソ声で続けた。
「あの子の家、両親が離婚したらしいよ。とても大学まで行くお金はないんじゃないかな」
私も知らないようなことをハルは披露する。
本当にいじめたり噂を流したり、ろくなものじゃない。
私が不快な顔になったのがわかったのだろう、ハルはそれきり黙ってしまった。カナが言う。
「最近、陽菜、神山さんと仲良くしてるって噂じゃん。近づかないほうがいいって言ったよね?」
「別に」
私は最後のご飯を口に入れた。そのままお弁当箱の蓋を閉める。
「私が誰と仲良くしてても関係ないじゃん」
カナをはじめ、皆が黙り込んだ。
明日からはこの人たちとお弁当は食べられないかもなと私はぼんやりと思った。
夏休みが来た。
夏期講習はカナたちとそれとなく過ごしている。
そもそも二週間足らずの講習だ。
話も適当に相槌を打っていれば問題ない。
高校からは宿題が出ていた。こちらの量が半端なかった。
夏期講習とか行ってる暇があったら宿題やらなきゃ、と思うほどの量だ。先生たち、本気だ。
「宿題、やりにこない?」
天子からメッセージが届いたのは、夏期講習が終わって数日後のことだった。
「私の家、誰もいないから集中できるよ」
「行く行く」
私の家は中学生の妹が夏を満喫しているところだ。
なかなか集中できないので、天子の誘いは渡りに船だった。
私と天子はメッセージアプリで連絡を取り合い、天子の家で宿題をすることにした。
天子の家を確認すると自転車で行ったほうが時間もかからなさそうだったので、自転車で行った。
三十分ほど自転車をこぐと、天子の家である綺麗なマンションが見えてきた。まだ新しいマンションだ。
住所を確認してから、マンションの下で天子にメッセージを入れる。
すぐにエレベーターで天子が降りてきた。
「いらっしゃい、陽菜! 自転車で来たの?」
「うん、置く場所あるかな」
「こっち」
天子に連れられ、整頓された自転車置き場に自転車を止めてから天子の家に向かった。
12階にあるという。二階建ての私の家から考えると別天地だ。
真っ白な廊下を通って、重厚感あふれる木のドアを開けると天子の家だ。
家の中は白で統一されていて、綺麗に片付いている。あちこちに天使の置物があった。
「お母さんが天使が好きでね。花瓶も置物も、ティーカップも天使」
天子がそう言って笑う。ひょっとしたら天子が自分のことを「天使」と言うのもそのあたりに理由があるのかもしれない。
「綺麗な家だねー!」
あまり人の家をじろじろ見るのはマナー違反だとは思っていても、ドラマに出てくるような現実味の薄い家に感嘆の声しか出ない。
「そりゃあ、陽菜が来るから必死で掃除したもん」
「私の家なんて、掃除してもこんなに綺麗にならないよ」
「そんなことないよ。それよりアイスティーでいい?」
天子は対面式のキッチンに入りながら聞く。
私の家では出るのは麦茶だろう。
よくてスーパーで買ったペットボトルのジュースだ。格の違いを思い知らされる。
「アイスティー好き」
「よかった。ガムシロップもあるから使ってね」
宿題は、白くて広いダイニングテーブルでやることになった。アイスティーをいただきながら天子がどのくらい宿題をやっているのか覗き込むと、半分以上終わっている。
「天子、頑張ってる」
「私、予備校とか行ってないし。その分、時間あったんだよね。終わってないところは教えるよ」
夏休みに入る前までに、天子がけして成績が悪いほうではないことはわかっていた。
むしろ成績上位者だ。
天子は意外にも理系科目が得意で、数学の苦手な私としては感心したものだった。
「じゃあ、数学教えて」
「まかせて」
わからなくて飛ばしていた問題を天子に解説してもらうと、すんなり理解できるから不思議だ。
私は代わりに古典を教える。天子は古典文法が苦手のようだった。
互いの苦手を教え合っているうちに時間はあっという間に過ぎる。
宿題もだいぶ捗った。天子の母親が作っておいてくれたというサンドイッチを食べながら、雑談タイムだ。
「天子のお母さんは働いてるの?」
聞くと、天子は頷く。
「会社の部長さん。父は単身赴任」
離婚なんて大嘘だった。やっぱり、いじめている人間の情報なんてあてにならない。
「お父さん、単身赴任だと寂しいね」
「うん。でも、会えない距離じゃないし」
聞けば電車で二時間もかからないところらしい。
休みに会おうと思えば会える距離だ。
それを聞いて、なんとなくほっとした。
「兄弟は?」
「一人っ子だよ。言ってなかったっけ。陽菜は?」
「中二の妹がいるよ」
「いいなあ、妹って憧れる」
「うるさいだけだよ」
眉を寄せてみせると、天子は笑った。
「そういうのが羨ましいの。私も兄弟がいたら『うるさいだけだよー』なんて言ってみたかった」
「そんなもの? 家で宿題も集中できないんだよ?」
「うんうん。いいじゃない。宿題邪魔されて喧嘩するんでしょ?」
天子にかかればうるさい妹も全部憧れになるらしい。今度、妹も紹介しようかとすら思った。
昼食後、もう一時間だけ宿題をしてから近くの公園に遊びに行くことにした。
なんでもそれなりに大きな公園で噴水が綺麗らしい。
真夏の太陽が照りつける。
天子は大きな麦わら帽子を被って外に出ていた。
服も長袖だ。あまり太陽に当たりたくないのかもしれない。
自転車を持ってくると、天子は嬉しそうに言った。
「後ろ乗せて」
「えー」
「いいじゃん、いいじゃん」
「じゃあ、ちゃんと道案内してね」
私が自転車を立てると、天子は遠慮なしに後ろに乗る。
自転車の二人乗りは違反行為なので、ちょっとだけ後ろめたい。
天子を後ろに乗せて走り出す。想像以上に天子は軽い。
「天子、軽いね」
「そりゃあ、私天使だから?」
「天使だからってずるーい!」
私の声に天子は笑う。
「えー、そんなに軽いなら、私も天使になろうかな」
天子は笑って肯定も否定もしなかった。
自転車で5分ほど走ると、大きな公園に着いた。入り口に自転車を止めて、二人で公園を歩く。木々の陰なら多少日が遮られて涼しい。
「あれ、噴水」
天子の指さした先に噴水があった。確かに大きい。
円形で、真ん中に大きな、周囲に小さな噴水が綺麗に並んでいた。
足元はタイルになっていて、子どもが水遊びできるよう設計されている。炎天下だ、たくさんの子どもが裸足で水と戯れていた。
「気持ちよさそう」
「でしょ? あれ、やらない?」
天子は子どもたちが遊ぶのを見て、どうしても自分もやってみたかったのだと言う。だから私を連れてきたらしい。
天子の妙な子どもっぽさに思わず笑ってしまった。
「やるなら、遠慮なしにやろう!」
靴と靴下を脱ぎ捨てる。
天子はサンダルなので、サンダルだけ脱いだ。
裸足になって私たちは子どもにまざって噴水の中に入る。生ぬるいけれど、水は気持ちがいい。
「うわあ、これはいいかも!」
「気持ちいいねー!」
ばしゃばしゃと水を跳ね散らかして私たちは噴水でステップを踏んだ。
転びそうになる天子を助けたり、互いに水をかけあったり、子どもが呆れるくらい堪能する。
やがて日が傾き、子どもたちは帰っていく。
私と天子も近くのベンチに腰掛けて、濡れた足をハンドタオルで拭いた。
「気持ちよかったー。なんか久しぶりに夏って感じした」
「陽菜にそう言ってもらえると嬉しいな。憧れだったんだよねー」
天子はサンダルを履きながら言う。
「海とか行かないの?」
「行かない、行かない。親が休み取れないし」
私の家は夏休みは必ず旅行へ行く。
豪華なものではないが、夏を満喫できる旅行だ。
今年は予備校で旅行は中止になったが、それでも夏は夏で満喫している。
なんだか天子が可哀想になった。あんな綺麗な家でも誰もいないのだ。
「……また、宿題やりに来てもいい?」
「ほんと?」
私が尋ねると、天子はぱっと顔を輝かせる。
「来て来て。なんのおかまいもできないけど」
「アイスティーがあるだけで十分だよ。お昼もコンビニとかで買うから、お母様に言っておいて」
「えー、お昼くらいは出させてよ。悪いよ」
サンダルを履いた天子はぴょん、とベンチから立ち上がる。
もう噴水には誰もいない。水が吹き上がっているだけだ。
「陽菜がいてくれるなら、夏も悪くないな」
天子がそういった時だった。
天子の後ろで、噴水が高く水を吹き上げた。その水が、曲がり、うねり、踊るように天へと伸びていく。
夕日にきらきらと水滴が輝く。天子にきらきらと水滴が降る。そして、噴水の水は星型を作り、ぱっと霧散した。
瞬きをした次の瞬間には、もう噴水は今までのように水を吹き上げるだけだった。
それはまるで、噴水が天子の喜びを体現したかのようだった。
天子の家を経由して帰ったほうが近いので、自転車を押しながら二人で歩く。もう空は藍色に染まりかけていた。
「一番星」
天子が指差す。確かに空に一粒、星が光っている。
「天子」
「なあに?」
「本当に、春で帰っちゃうの?」
また来年、噴水で遊ぼうと思っても、天子はいない。
そう思うと急に寂しくなった。天子は困った表情でうなずく。
「あの星より遠いところへ、帰るの」
天子は一番星を指さした指先をすっと斜めに動かす。まるで流れ星が降ったかのように見えた。
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