本編
【第二章:『来客』】
小中高と塾にも通わず、独学で国内屈指の難関大学に進学した僕だが、そこで初めて自分のコミュニケーション能力の欠如を知る。
早い話が、“コミュ症”だったのだ。
それまで勉強さえしていれば生きてこれた。
友達と呼べる人間がいなかったわけではないが、必要以上につるむこともなかったし、共通の趣味や勉強の話しかしてこなかった。
それで何も問題なかったのだが、いざ大学生となって挫折を味わうことになる。
とにかく、人付き合いが上手くできないのだ。
誰とも話が合わないし、そもそも話したい内容などない。
別に 1 人で過ごすのは構わなかったが、大学の講義というのは、なぜかことあるごとにグループワークをさせたがる。
やれ隣の人と話し合えだの、グループでプレゼンをしろだの、結局は面倒なやりとりを要求される。
僕はこれが苦痛で仕方がなかった。
周りは、どこもかしこもチャラチャラした男女で溢れていて、真面目に勉強をしにきているような雰囲気は皆無だった。
せっかく偏差値の高い大学に入ったというのに、本当にこいつらは同じ試験を受けて合格したのかと疑問に思った。
人生で初めてアルバイトも経験してみたが、やはり人間関係に心が折れ、なにをやっても長く続かなかった。
大学を辞めてすぐ、母からは実家に戻るよう強く言われた。
うちは母子家庭で兄弟もいないため、僕は母にとって唯一の近しい家族だったのだ。
しかし僕は、母の命令を秒で断った。
あのヒステリックな蹴りを受けたり、味噌汁をぶっかけられたりするのはもう御免だったからだ。
学生マンションは退居しないといけなくなったし、大学の近くに住み続けるのも落ち着かないので、思い切って別の町に引っ越すことにした。
新しい住所は、母はもちろん誰にも教えていない。
立地や間取りにこだわりはなく、とにかく家賃が安いところを探して、町にある個人経営の不動産屋に飛び込んだところ、いまのアパートを1件目に紹介してくれた。
駅やコンビニも近く、築年数もそれほど経過しておらず、即入居ができて家賃は相場の半額だ。
「シンリテキカシ」があるとのことで、僕は最初、いわゆる事故物件かと思った。
普通はこういう物件は出し惜しまれるものだろうが、店主のおじいさんは僕に、「君は、こういうの気にしないタイプだね」と、見透かしたように言って内見へと連れて行ってくれた。
聞くと、誰かが死んだ部屋というわけではなかった。
ただ、入居する人がことごとく精神を病んで、すぐに出ていくそうだ。
中には発狂してベランダから飛び降りた人もいたらしい。
幸いこの部屋は2階なので、命に別状はなかったらしいが。
その時の僕はというと、すでにじゅうぶん精神を病んでいたし、なにかオバケのようなものが出たとしても、そいつよりも自分のほうが強い霊気を帯びている自信があった。
だから条件としては何一つ問題はなく、他の物件を見ることもなく入居を決めた。
いざ住み始めたものの気分が一新するようなことはなく、相変わらず鬱屈とした気分で毎日を過ごしていた。
貯金は引っ越しで使い果たし、すぐにバイトでもしないと生活費も賄えないという状況だった。
しかし、いままで散々うちのめされていた僕に、何か行動に出る気力は残っていなかった。
部屋の中で、僕は毎日途方にくれていた。彼女に会うまでは。
彼女が僕に触れてくれたとき、涙が止まらなかった。
天使が手を差し伸べてくれたように感じた僕は、彼女の、その“手”に恋をしたのだ。
恥ずかしながら、初恋だった。
彼女のおかげでバイトを始める気になれたし、いまも辞めずに続けているのも彼女の存在があるからだ。
この部屋に引っ越して、僕は本当に良かったと思う。
ある日、先輩から LINE が来た。
大学を辞めてから僕がどうしているのか尋ねてきたので、どう答えようか迷っていた。
僕はわずかな期間、大学の文学サークルに所属していたのだが、その時サークルで出会ったのが先輩だった。
結局、僕はサークル内でも馴染めず、すぐに辞めてしまったのだが、先輩はその後も時々連絡をくれては、気にかけてくれていた。
僕は、ずっと先輩の LINE を無視していたことを申し訳なく思った。
僕がまだ東京都内に住んでいることを伝えると、先輩は久しぶりに会おうと誘ってくれた。
思い返せば、大学で出会った人の中で僕が唯一心を開けたのが先輩だった。
読書の趣味も合ったし、周りの大学生と違って先輩は落ち着いた雰囲気を持っていたから、僕は一緒にいて楽だった。
きっと彼女に出会っていなかったら、こうして先輩と再び顔を合わせることもなかっただろう。
少しだけ生きることに前向きになっていた僕は、この誘いに乗り、先輩と居酒屋で落ち合った。
着くと、先輩は以前と変わらない出で立ちで、「やあ」と声をかけてきた。
酒を交わしながら、お互いの近況を語り合う。
と言っても、僕のほうは大したことは話していない。
大学から離れた町でフリーターをしているとだけ伝え、あとは先輩の近況を聞いたり、最近読んだ小説の話などで盛り上がった。
僕が一杯目のビールをゆっくり飲んでいるうちに、先輩は何杯もおかわりをしていた。
酒がすすんできたせいか、普段は物静かな先輩も、少しだけ声が大きくなり、感情が豊になってきた。
そして、先輩がふと、何か言いにくそうな表情をしてから切り出した。
「実は俺、彼女と同棲しているんだけどケンカしちゃってね。帰るに帰れないんだ。今夜だけ、お前のところに泊めてくれないか?」
それを聞いて僕は返答に困ってしまった。
あの部屋に人を呼ぶことなど、一度も想定したことがなかったからだ。
僕が沈黙していると、先輩が何かを察したように言った。
「そっか、お前にも彼女くらい居るよな。そっちの事情も聞かず、すまなかった」
先輩にそう言われて、僕はドキッとした。
そういえば、僕と彼女は、はたして恋人同士なのだろうか。
一つ屋根の下で暮らしているというだけで、そういった口約束を交わしたことは一度もない。
僕が一方的に恋焦がれているが、彼女が僕のことをどう思っているのかは、確認したことがない。
彼女のことを先輩に紹介したい気持ちもあったが、その関係性を説明する言葉がどうしても浮かんでこなかった。
「ネカフェにでも行くから、俺のことは気にしないでくれ」
そう言うと先輩は、笑顔を作って別の話題を話しはじめた。
しかし、すでに僕の頭は彼女のことでいっぱいになっており、先輩の話が全く耳に入ってこなかった。
「先輩、僕の彼女に会ってください」
先輩が喋っているのを遮って、僕はそう口にしていた。
店を出てからも、先輩はしばらく渋っていた。
いくら後輩とはいえ、人の彼女が居る部屋に泊まるのは、どうにも忍びないのだそうだ。
アパートに向かいながら、僕は今の状況を説明した。
「彼女とは成り行きで一緒に暮らしていますが、まだ、“付き合っている”とお互いに確認したことはありません」
「……そういうことか」
「ですから、先輩に部屋に来てもらって、そこで初めて“僕の彼女です”って紹介しようと思うんです。その時、彼女がどんな反応をするか、確かめたくて」
「おい、もし彼女さんが否定したらどうするんだよ。俺、そんな気まずい空気のなか居られないぞ」
「その時こそ、一緒に居てください。彼女に否定されたら、僕はどうなってしまうかわかりません」
「怖いこと言わないでくれよ」
そこからは無言で歩いた。
先輩の言うとおり、本当に彼女に拒絶されたら僕はどうするだろうか。
考えただけでも怖かった。先輩は何も言わずについてきてくれた。
きっと僕の様子がおかしかったから、心配してくれていたのだと思う。
アパートの鍵をあけ、中に入る。
電気をつけて部屋を見渡したが、まだ彼女の姿はなかった。
「今はいないようですね。少し待ってみましょう」
僕がそう言って振り返ると、後ろにいた先輩は不思議そうに室内を見ていた。
「一緒に暮らし始めたのは、最近?」
「2か月ほど前からです」
「…枕は一つなのか?」
「好きな本、読んでていいですよ。何か飲み物でも用意します」
僕の部屋には背の高い書棚が3つあり、そこには数多くの本が並んでいる。
主に小説だが、ビジネス書や学術書もある。
読書好きならテンションの上がる部屋だと思う。
先輩はすぐに興味を示し、端から本を眺めていった。
そこからは、2人で本について語ったり、それぞれ気が向いたものを読んだりして過ごした。
その間、彼女は一度も姿を見せなかった。
書棚の本はところどころに隙間を作って並べてあり、彼女が出てきやすくしている。
いつもなら僕が帰宅して1時間もしないうちに、隙間の一つから手が伸びてくるのだが、一向に出てくる気配がない。
気が付けば深夜0時を回り、それなりに酔っていた先輩はいつのまにか床に寝転がって寝息をたてていた。
僕も眠気を感じていたので、シャワーを浴びてから寝ることにした。
浴室から部屋に戻ると、彼女が居た。
彼女は本の隙間から手を伸ばし、先輩の顔の前でゆらゆらと手の平を揺らしていた。
知らない誰かが寝ていることに違和感を覚えたのかもしれない。
彼女を落ち着かせるために、僕は音楽をかけた。
ベートーヴェンの“悲愴 第二楽章“が流れるなか、彼女の指が少しずつ先輩の顔に近づき、眉間に触れる。僕は先輩に告げた。
「先輩。目の前に居るのが、僕の彼女です」
彼女の指の動きが止まる。
グリっと手首をひねったかと思うと、彼女の手は消えていた。
次の瞬間、僕の背後から彼女の腕が伸びてきた。
彼女は僕の脇腹から腕をまわして、左胸に爪を立てた。
まるで背後から心臓を掴まれたような状態になり、僕は目をつむった。
「君が好きだ」
僕が言うと、彼女は一層強く僕の胸を握った。
彼女が爪を立てている部分から、服が赤く滲んでいくのがわかった。僕は嬉しかった。
彼女に認めてもらえた。その事実が、しっかりと認識できたのだ。
僕が、「彼氏」になった瞬間だった。
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