アニログ小説「ミヅメ」Episode1

本編

【第一章:『隙間』】

 外の世界がどれだけ美しくても、僕には関係ない。

この部屋で彼女と過ごす時間が、いまの僕の、幸せの全てだ。

 いつになく上機嫌な彼女と戯れていたら、夜が明けていた。

カーテンの隙間から漏れる青白い光が僕をイラ立たせる。もっと、もっと夜のままでいいのに。

間接照明のほのかな明かりの中で、静かに本を読んだり、スマホで動画を見たり、コーヒーを飲みながら愛おしい彼女の手を眺めている時間が、僕はなにより好きだ。

彼女のスラっとした美しい指は、何時間でも見ていられる。

日が昇れば、外の世界は動き出す。

そうすると僕はまた、「外」に出なくてはならない。

この世の中、社会から完全に自分を切り離したら生きていけないのはわかっている。

しかし、億劫なものは億劫なのだ。

永遠に夜が続けばいいと本気で思う。

僕は仕方なく仮眠をとることにした。

7時にセットしたアラームが鳴るにはまだ時間がある。

今から寝れば多少なりと睡眠はとれるだろう。

僕は間接照明を消して布団に潜り込んだ。

彼女に「おやすみ」と告げて。

 率直に言って、労働するのは生活費のためである。

やりがいや生きがい、社会貢献などクソくらえだ。

仕方がないから働くのだ。

おそらく世の中のほとんどの人がそうだろう。

本当は誰だって、愛する人や家族と、あるいは一人で気ままに、家でゆっくり過ごしたり遊びに出かけていたいに決まっている。

僕は彼女と出会い、自分にとって大切な存在ができて初めて、このことに気が付いた。

月並みな言葉だが、人は幸せになるために生まれくるのだ。

決して、いつ破裂するかわからないほどのストレスを抱えて、社会の歯車として生きることが目的ではない。

これだけ科学技術が進歩して、AI だのメタバースだのと言っている時代に、どうしていまだに僕たちはやりたくもない“仕事”をしないといけないのか。

ベーシックインカムはいつになったら適用されるのか。

不満を挙げだしたらキリがない。

そんなことを考えながら歩いていると、あっという間に職場に到着する。

職場なんて言うと聞こえはいいが、ただのバイト先である。

今日も長い一日が始まると思うと、心底うんざりした。

1人で単純作業を黙々とする仕事であっても、人と全く関わらず一日を終えることはできない。

出勤時や休憩中、ちょっとしたミーティングで、必ず誰かと対面する。

無駄なコミュニケーションは可能な限り避けたいと考えている僕に、これほど苦痛な時間はない。

雑談など振られたときには、業務以上に精神を消耗する。

1 人になりたい。早く終われ。そう思えば思うほど時間はゆっくりと流れる。

バイトなんて辞めてしまいたい。

日に何度もそう思うが、そんな時は彼女の事を思い出す。

家賃が払えなくなっては駄目だ。

あの部屋で、彼女と暮らしていくには何としても僕が稼がなくてはならない。

他の誰かに、彼女をとられたくない。

そう自分に言い聞かせ、いまの僕はギリギリのところで日常を保っている。

彼女に繋ぎとめてもらった命だ。僕にもう一度、生きる希望を与えてくれた彼女を、僕は絶対に離さない。

17 時になると、僕は真っ先にロッカー室へと向かう。

誰よりも早く帰り支度をして、すれ違う人には一応、挨拶だけして部屋を出る。

今日も無事に終わった。帰れば彼女に会える。

この日もやり切った気持ちで職場を出ようとしたが、あと少しのところで後ろから呼び止められた。

責任者の A だった。僕は胃が縮み上がるのを感じた。

A は、週に2回は僕に説教をしないと気が済まない性分らしく、この日も僕を捕まえて、人のプライベートを侵食してきた。

やれ作業が雑だの、帰るのだけは早いだの、いつも聞いている内容だが指摘することが広範囲すぎて結局何を言われているのかわからない。

挙句の果てには僕の体から異臭がするだのと言い出す始末だ。

説教の内容はちっとも頭に入ってこないが、反省している振りをしないと奴はエスカレートしていくので、なるべく謙虚に目線を伏せてうなずく。

立ったまま正面からダメ出しを食らうこと 30 分。

ようやく気が済んだのか、A は僕を呼び止めていたくせに「早く帰れ」と冗談のようなことを吐き捨てて去っていった。

A に対する憎悪で吐き気がした。ふらつく足で、帰路につく。

アパートの玄関に辿りつく頃には、彼女に会える嬉しさで気持ちはリセットされていた。

家で誰かが待ってくれている生活は、こんなにも心温まるものなのかと、僕は帰る度に思う。

ドアを開け、「ただいま」と声をかけて部屋に上がる。

キッチンを過ぎて六畳のワンルームに入ると、僕はスウェットに着替えた。

部屋の中を見渡す。静まり帰った室内に、彼女の姿は見えない。

僕は浴室に行ってみた。ここにも彼女は居ないようだった。

風呂とトイレが一緒になったユニットバスの室内には洗面台もあり、鏡に映る自分の顔が目に入った。

頬に汚れが付いている。きっと作業中に付いたのだろう。

こんな顔で彼女に会ったら笑われてしまう。

そう思った僕は洗面台で顔を洗い、壁にかけてあるタオルで念入りに拭いた。

そして再度、鏡を見ると、僕の右肩に彼女の手が乗っていた。

手は、半開きにしていた浴室ドアの隙間から伸びていた。

僕は鏡越しに微笑み、そっと彼女の手に自分の左手を重ねた。

「ただいま」

僕は彼女に声をかける。

冷んやりとした彼女の体温を感じながら、手を撫でてやり、指を絡ませる。

第四関節まである彼女の長い指はスラっとしていて美しく、白い皮膚に赤いマニキュアが妖艶なコントラストを放ち、見ていてうっとりする。

彼女に触れることができて、今日一日の疲れがスッと癒されていった。

スマホで、シューベルトの“セレナーデ”を検索し、無料の音源を再生した。

Bluetooth のスピーカーから落ち着いた音色が流れる。

ここからがようやく、僕の時間だ。

光が苦手な彼女のために買った遮光カーテンを閉め切り、間接照明に明かりを灯して、のんびりと夕食の準備に取り掛かる。

優雅なひとときであることに間違いはないが、食事の準備といってもコンビニで買った総菜とカップラーメンだ。

だがそれで充分なのだ。

なにしろ彼女は食べないのだから、用意するのは僕の分だけでいい。

なんてコスパのいい同棲生活だろう。

夕飯をローテーブルに並べ、座椅子に座って一息つく。

僕が準備をしている間や食べている時も、彼女は時折、姿を見せてくれる。

壁と冷蔵庫の間、書棚に並べた本の隙間、閉め忘れた引き出しの奥、床に敷きっぱなしの布団の下など、室内のあらゆる“隙間”から指先をチラつかせては僕を魅了する。

「ちゃんと見てるからね」

彼女が見えるたび、僕は答える。

姿が見えない時でさえ僕は常に話しかけ、職場での愚痴な
ども聞いてもらっている。

彼女は何も話さないので、喋るのはいつも僕ばかりだが、誰かに
話を聞いてもらえることがとにかく嬉しかった。

嬉しくて、つい何でも喋ってしまう。

幼い頃から無口だった自分から、こんなにも話題が溢れてくるのかと驚くほどだ。

彼女のおかげで、僕は僕の知らない部分まで発見できた。

音楽に耳を傾けながら、食事をすすめる。

食べ終えるとコーヒーを淹れて、そこからは自由に過ごす。

これが僕の日常だ。

コーヒーを飲みながら、書棚に目をやる。彼女が本の隙間で、曲に合わせてうねうねと指を動かしている。

見えているのは手だけなのに、こんなにも人を魅了する彼女は、きっと魅力的な姿をしているのだろう。

彼女の皮膚の質感から、年齢はおそらく僕より少し上だと思われる。その容姿を見てみたい。

彼女と会って3ヵ月ほど経つが、彼女はいまだに手しか見せてくれない。もどかしい。

彼女が手を出している“隙間”の向こう側を見てみたい。

しかし同時に、漠然と、見てはいけない気もしていた。

そこだけは決して覗いてはいけない。

覗けば、なにか取り返しのつかないことになりそうな気がして、僕はいつも断念する。

それがどういう状況なのか説明できないけど、そこには確かな“恐怖”が潜んでいる気がしてならなかった。

気がつくと、本の隙間の彼女は消えていた。

僕がふと横を見ると、顔の真横に彼女の手があった。

手は、僕の後ろに置いていたリュックの中から伸びているようだ。

彼女の手が、後ろから僕の右頬にそっと触れてくる。

そのまま長い指が顔を覆って左頬に届く。

まるで「見てはいけないよ」と言われているようで、僕はさきほどの思考が彼女にバレたのだと思った。

大丈夫だよ。僕らの関係を壊すようなマネはしない。そう心の中でつぶやいた。

僕は、今のままでじゅうぶん幸せなのだから。

不格好だとは思ったが、僕は目を閉じ、返事の代わりとして彼女の手にキスをした。

ピアノの旋律が心地よく脳内に染み渡った。

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