本編
二章
マリカは今夜、三年棟を調査する許可をもらうために、本棟の職員室を訪れた。
「金子先生って、どの方ですか?」
手近にいた女性教師に尋ねる。
「今はいらっしゃらないわね。三年棟は見たの?」
「それらしい方はいませんでした」
「金子先生はよく、三年棟の裏手の花壇で花の世話をしてらっしゃるから、そこかもしれないわ」
仕方なく、三年棟に引き返して、裏手をのぞくと、色とりどりのポピーが咲き乱れる花壇の前に、しゃがみ込む男性の後ろ姿が見えた。雑草を抜いているようだ。
「キレイですね」
近寄って声を掛ける。男性がさっと振り返った。こわばった表情をしていたので、マリカは驚いて一歩あとずさったが、男性はすぐに表情を和らげた。
「そうだろう。僕が毎日水やりをしているんだ。手間をかけるときれいな花が咲くのは、受験生と一緒だね」
と笑顔を向けてきた。
年齢は三十代後半だと思うが、なかなかのイケメンだ。真っ白なポロシャツも爽やかだ。
きっと女子生徒に人気があるのだろう、と思いつつ左手の薬指を見ると、結婚指輪がはまっている。
「三年学年主任の金子先生ですよね? 新聞部二年の藤井マリカです。今日の二十時頃、三年一組で心霊現象を取材したいんですけど」
「もの好きだね。幽霊を見ようっての?」
金子は呆れたように言った。
「正直、見たくないですね。正体を暴けたらいいな、と思ってます」
「へえ! そういうことなら、三年棟の鍵を貸してあげよう。僕は二十時半ごろまで本棟の職員室にいるから、取材が終わったら返しに来てくれ」
予想に反して、あっさりと許可された。
本当は、断ってくれたらいいな、と思っていたのに、許可されてしまっては、取材せざるを得ないではないか。
金子に礼を言いつつも、マリカの心はどんより曇っていた。
*
その日の二十時、マリカと圭吾は三年棟前で落ち合った。
もはや意地だ、とやって来たものの、夜の三年棟は昼間よりもいっそう不気味だった。古びた木のシミが人の顔のように見える。
「新聞部の連中、誰か来るかな……」
スマホを出して新聞部のグループラインを確認するも、新しいメッセージはない。
昼間、奈々子から「ちゃんと取材してる?」と確認があったので、「今夜二十時、三年棟に、各種機材を持ち込んで科学調査しまーす。興味のある人は来て!」とメッセージを打っておいた。
なのに、誰からも「来る」という返事はない。「頑張れー」といったスタンプばかりだ。
「どいつもこいつも、臆病者なんだから!」
自分のことは棚に上げて、マリカは罵った。
「ぼちぼち行こうか」
のんびりとした口調とは相反して、圭吾は重装備だった。まず背中にラックを背負い、あらゆる計器を載せている。
計器から手元のタブレットにケーブルをつなぎ、数値がすぐに確認できる仕組みにしている。頭にはライト付きヘルメットを着け、まさに完全装備といったいでたちだ。
「藤井さんはこの暗視カメラで撮影して」
とビデオカメラを手渡してきた。
「大げさね。スマホで撮影しようと思ってたのに」
「暗いから、普通のカメラじゃ無理だよ。幽霊が出てきやすいように、このライトも最低限の照度に絞ってるからね」
と、圭吾はヘルメットに付けたライトを指した。
あらかじめ金子から借りておいた、古い鍵で玄関を開く。ギィギィと歯ぎしりのような音が鳴った。
なかに入ると、予想よりもずっと闇が濃い。柱の後ろに黒い影が潜んでいて、じっとこちらを見ている気がする。
「あ、あんたが先に歩きなさいよ」
「じゃあ遠慮なく」
圭吾は二階へ向かう階段を昇った。
「ちょっと、歩くの早いよ! 心の準備ってもんがあるんだから」
圭吾のシャツを後ろから掴み、マリカもへっぴり腰でついて行く。
とはいえ、一応取材なので、右手はビデオカメラで撮影している。
「ひゃっ! 今、首筋に生ぬるい風が!」
マリカは飛び跳ねた。
「風向風速計が反応したから、すきま風だよ」
圭吾はひるむ様子もなく、手前の三年二組の前を通り抜け、奥の一組の前へ行った。
「教室のドアを開けるよ。窓ガラスの向こうに例の霊がいるといいね!」
マリカはくだらないシャレに突っ込む余裕もない。
圭吾の背に隠れつつ、震える腕を伸ばして、ビデオカメラを向ける。
「記者根性だねえ」
「うるさい、さっさと開けなさいよ、カピバラ!」
圭吾は音を立てて引き戸を開いた。しかし直後に、ため息をついた。
「残念、いないみたいだ」
「良かったぁ」
マリカは胸をなで下ろした。
圭吾はタブレットを確認しながらウロウロしはじめる。
「電磁波測定器も反応なし、か。やっぱりニセモノかな。誰かが、人為的に幽霊を作り出したのかもしれないね」
マリカは目を見開いた。
「誰かが、窓の外に人形を吊るしておいて、忘れ物をした斉藤さんに目撃させたのね?」
圭吾は目を丸くして、直後に噴き出した。
「安っぽいお化け屋敷じゃないんだからさ、人形はないよ!」
「馬鹿にしないでよ! じゃあどうやるのよ」
「たとえば――口で説明するより、用意してきたものを見せた方が早いな。藤井さんはいったん、廊下に出てくれる?」
言うや否や、圭吾は内側からドアを閉めた。マリカがやきもきと待っていると、
「入ってきてー」と声がした。
「もう、一体何なのよ」扉を開けたマリカは、凍り付いた。
正面の窓ガラスに、青白い人の顔が浮かんでいる。
「ぎゃあああああ!」
後ずさろうとしたが、足が空回りして、尻もちをついた。
さっと、教室の明かりが点く。
「まさかそんなに驚くとは」
圭吾がマリカに手を差し出す。
「ア、アレ、あんたが作ったの!?」
「そうだよ」
マリカは圭吾の手を力いっぱい、はらいのけた。
「そんなに怒らないでよ。カラクリを説明するから」
教室に入ると、圭吾が入り口扉の上を指した。陰影を強調した圭吾の顔写真が貼り付けてあり、その下には、ライトが設置してある。
「これは人感センサー付きライトだ。人が下を通ると光る。ライトは上向きだから、暗闇だと、僕の写真が正面のガラス戸に映って、不気味に浮かび上がるのさ」
「こんな簡単な仕掛けで……」
「冷静な人にはすぐバレるだろうけど、ドアを開けて出しぬけにこれを見たら、部屋に入らずに逃げちゃうんじゃないかな。ライトの照射時間も、二秒程度にしておけば、考察する間もないだろうし」
マリカは感心して唸った。霊が写っている窓の方に意識が向くけど、トリックは自分の頭上にあるなんて、すごく滑稽だ。
「ははっ! 分かってしまえば怖くないわ! 幽霊でもなんでも、どんと来い、よ」
そう豪語した瞬間、どこからともなくカツーンと音がした。マリカはすくみ上がる。
「今の、なんの音?」
すぐ近くで鳴ったようでもあり、外で鳴ったようにも聞こえた。
「どこから鳴ったんだろう」
圭吾も辺りを見回しながら呟いた瞬間、
ガンガンガンガンガンガンガンガン!!
凄まじい音が響く。
幽霊でもなんでも、どんと来い、なんて言ったから、本物の霊が怒ったんだ。とっさにそう思った。
「ごめんなさああああぁぁい!」
マリカは絶叫して走り出した。
途中、圭吾を突き飛ばしたような気もするが、構っていられない。廊下を走り抜け、階段を駆け下り、三年棟を飛び出した。
街灯の下まで走り、息を整える。だが鼓動はいつまでも早鐘を打っている。
「なんて私がこんな目に」
マリカはしゃがみこんだ。
圭吾はまだ出てこないのだろうか。
やきもきしながら待っていると、五分くらい経ってようやく圭吾が出て来た。
マリカに気づいていない様子なので、立ち上がって「こっち!」と声を掛けると、圭吾はゆっくり近寄ってきた。
「もう、遅かったじゃないのぅ! まさか、調べてたの?」
「音の出所を調べたかったけどね、君が僕にぶつかったはずみにメガネが落ちて割れたんだ。裸眼だとかなり視力が悪いから、調査は諦めて出て来たよ」
圭吾は口を尖らせている。
そういえば圭吾にぶつかった直後、何かを踏んづけた。
「悪かったわね。でもあんな音がしたら、逃げ出すに決まってるじゃない――あ、その視力で家まで帰れる?」
いまやカピバラメガネではなく、カピバラそのものになった圭吾に尋ねる。
「家族に迎えにきてもらうよ」
「ならいいけど」
「でも調査は持ち越しだね」
「またやるの? こんな夜は、もうこりごりなんだけどぉ!」
マリカは悲鳴に近い声で叫んだ。
「いいや、あとは日中の調査で十分だ。視力が悪い状態とはいえ、手元のタブレットは確認出来た。でも、なんの反応もなかった――やはり、この怪異は人為的なものだ」
「本当に? 幽霊からの警告じゃなくて?」
マリカはまだ、信じられない。
「違う。どちらかというと、騒動を仕掛けた奴からの脅しだね」
霊が本物でないのなら、マリカとしてはありがたい。
でもそうなると、圭吾が調査をやめると言い出すのではないかと、マリカは不安になった。
「あんた、本物の霊にしか興味ないよね?」
「そうだね。でも、故意に幽霊騒動を起こして人を怖がらせる奴が、どんな顔をしてるのかには、興味がある」
圭吾はマリカの目をまっすぐに見ると、カピバラみたいな顔で不敵に笑った。
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