本編
四章
本棟の職員室で、金子が残業しているのを窓の外から確認すると、奈々子は三年棟へ走った。
金子が見回りに来る前に済ませなけばならない。
ポケットから鍵を取り出し、ペンライトでドアを照らして、慣れた手つきで三年棟の鍵を開ける。
周囲を確かめてから、真っ暗な内部に体を滑り込ませる。
暗い階段を昇り、一組の教室へ行く。
もう、幽霊騒動は必要はない。
ただ、姉の遺したものを教卓へ置いておく。
それだけでいいのだ。奈々子は手にしたライトをぎゅっと握りしめた。
両親が離婚したのは奈々子が三歳の頃だった。
ものごころつく前だったから、別々に暮らすことになった母や姉を恋しく想ったりしなかった。
父がすぐに再婚して、継母に可愛がってもらえたのも大きかった。
実母と七歳離れた姉とは、年に一、二度程度しか会わなかった。
姉が姿を消した時、母は身を裂かれるようなショックを受けただろうが、奈々子にはそれほどまでの衝撃はなかった。
母は長らく塞ぎこんでいたが、最近ようやく気持ちの整理をつけたらしい。
ひと月ほど前。
奈々子を呼び出して、姉の私物をくれたのだった。
服やら、カバンやら、本やら、ハンカチやら。
その中にシルバーの指輪と、古い鍵があった。
母は指輪を手に取って、『睦子には、指輪を贈ってくれる、秘密の恋人がいたみたい。受験のプレッシャーから逃げ出すために、二人で駆け落ちしたのかもね』と言った。
鍵は、どこのものかわからない、と母は言った。
だが奈々子は、それと同じものを見たことがあった。
以前、担任の金子が、教室で鍵を落としたことがあった。
奈々子が気づいて、拾って渡してやったのだが、鍵が印象に残っていた。ウォード錠と呼ばれる古いタイプのものだったからだ。
こんな古いタイプの鍵で大丈夫なのか、と思わず金子に尋ねると、「帰る前に機械警備をかけるから、古くたって大丈夫なんだよ」と、笑って答えた。
ある日の夕方、奈々子は母からもらい受けた鍵を、三年棟に挿した。
まさか開くわけないわ、といたずら半分に試しただけだった。
けれど、扉はギィギィと音を立てて開き、奈々子は膝から崩れかけた。
睦子はここで、恋人と逢引をしていたのだ、と直感的にわかった。
その相手は、シルバーの指輪に彫られたM・Kこと、金子勝かもしれない。
だとすれば睦子は金子に殺されたのだろう。
そう思っても、確証は一つもなかった。
考えた末に、女性の泣き声や足音の音データ使って、幽霊を偽装した。
金子が睦子を殺したのなら、怯えるだろうと思ったのだ。けれど、金子に変化は見られなかった。
もっと決定的な睦子の霊を見せなければ。
奈々子は睦子の写真を使い、幽霊が現れる仕掛けを、教室の扉の上に設置した。
普段、金子は三年棟に施錠をする前に、各教室の見回りをする。
睦子の霊を見た金子は、どう反応するだろう? 奈々子は暗い教室に潜んで、その時を待った。
が、誤算が生じた。
忘れ物をした斉藤をともなって、教室に来たのだ。
生徒と一緒だったせいか、金子は期待したような狼狽をみせず、教室の電灯を点けようとした。
あらかじめ、ブレーカーを落としておいて、本当に良かった、と奈々子は安堵した。
金子はブレーカーを点検に行き、その隙に奈々子は仕掛けを回収した。
ふと思いついて、たまたま持ってきた睦子の指輪を教卓の上に置いた。
それから、奈々子は隣の二組の教室に移動した。
一組に戻ってきた金子は、窓を開けたりして調べているようだった。
だが、幽霊の痕跡を見つけられるはずはない。
仕掛けはすでに、奈々子の手のなかにある。
金子が、幽霊に反応を見せなかったのは、本当に残念だったが、うわさ話好きの斉藤に幽霊を目撃させられたのは、ある意味、幸運だったかもしれない。
奈々子は、幽霊は七年前に失踪した少女だ、と尾ひれをつけて噂を広めた。
さらに新聞部のネタにして、心霊現象を学校中に広めよう、とも考えた。
後輩であるマリカを担当にすれば、ひょっとしたら睦子の事件まで掘り下げてくれるかもしれない。
それに金子に対して、次の手を打てた。
金子は教卓の上の指輪を見つけたはずだ。
金子が睦子の失踪に関係していないのなら、指輪を落とし物ボックスに入れるだろう。
しかし関係しているなら、指輪を人知れずどこかへ捨てるはずだ。
そして奈々子が予想した通り、数日経っても、落とし物ボックスに指輪は入っていなかった。
それはもはや、自分が犯人だと言っているのも同じだ。
その時。
奈々子の回想を遮るように、教室の電灯がともされた。
奈々子が振り返ると、金子が壁にもたれかかって立っていた。
「君は白川睦子の妹だったのか。睦子と少しも似てないね」
少し落胆した声で、金子がつぶやいた。
*
すでに二十一時を回っている。マリカが三年棟に着くと、三年一組の明かりが点いていた。
誰がいるんだろう、奈々子か、それとも圭吾だろうか。
駆け寄ろうとすると、闇のなかから圭吾が飛び出してきた。
「藤井さん、ヤバいよ。奈々子さんが三年棟に入ったあと、金子先生も入って行ったんだ。どどどうしよう、奈々子さん、大丈夫かな?」
血の気が引いた。
「私たちの推理が当たっているとは限らないし、いざとなったら警察を呼ぶから大丈夫よ。さあ、三年棟に入ろう」
自身に言い聞かせるようにマリカは言った。
足音を立てないように二階に上がり、廊下を進む。
教室の扉は細く開いていた。隙間からのぞくと、金子と奈々子が向かい合っている。
奈々子は目に敵意をみなぎらせているが、金子はいつものように余裕の表情で、笑みさえ浮かべている。
「動かない、喋らない霊なんかじゃ、信ぴょう性が薄いんだよ。僕をビビらせたかったら、今度はプロジェクションマッピングでも持ってくるんだな」
金子は鼻で笑った。
「誤解しないで欲しいのだけど、先生を恨みに思っているわけじゃないの。姉を恋しく思うほど、私たちは親しい姉妹じゃなかった。でも、殺人犯が校内にいるのなら、新聞部の部長として、放置しておくわけにはいかない」
奈々子が毅然と言った。
くっくっ、と金子は肩を揺らして笑う。
「見上げた記者根性だ。いいだろう、君の心意気に敬意を表して、本当のことを教えてやる。――僕は睦子を愛していた。彼女をいつまでも手の中に入れておきたかった。僕はほかの女性と結婚するけど、一生付き合いを続けようと睦子に言ったんだ」
「そんな身勝手な!」
と奈々子が叫んだ。マリカも同様の気持ちだ。
「身勝手? 結婚なんて縛りを作らずに純粋に愛だけで繋がれた関係を、素晴らしいと思わないか? なのに睦子ときたら、『結婚をやめてくれないと、生徒に手を出したとばらす』と脅してきたんだ。そんな娘だとは思わなかったよ。だからしょうがなく殺したのさ。本当に残念だったよ、彼女となら一生の付き合いができたはずなのに」
「先生は、人の皮をかぶった悪魔ね」
奈々子は後ろに後ずさりしつつも、強気に言い放った。
「さて、今のは特別サービスだ。真実を教えてあげたんだからね。でも残念なお知らせがある。話してしまった以上は、君を生かしてはおけない」
金子が奈々子に詰め寄る。
奈々子は身をひるがえそうとしたが、机にぶつかって転倒した。
金子は奈々子に覆いかぶさり、その首に手をかけた。
「ああ、どうしよう」
圭吾が動転した顔を向けた。男子なのに頼りがいのない奴!
「あんたは警察に電話して! 私が止めてみせる」
マリカは立ち上がって扉を開けた。
「やめなさい!」と叫ぼうとするが、なぜか喉から声が出ない。
どうして、と焦っていると、ピシっと音を立てて窓ガラスにひびが入り割れ、粉々になって崩れた。
同時に部屋の電灯も砕け散り、一気に暗くなる。
カーテンが大きくたなびいている。風なんて、吹いていないのに。
金子が、唖然としたように窓の外を見ている。
マリカは強烈な悪寒がした。体が動かせない。
窓の外に黒髪の少女が立っていた。
少女の体は、闇に浮かぶように白く、半透明だった。
うわ、圭吾ったら、こんなリアルな霊が作れるの?
マリカはそう言おうとした。だが、やはり声が出せない。
半透明の少女は、窓からするりと部屋に入ると、金子に向かって手を伸ばした。その手が、金子の首に巻き付く。
「睦子……! 許してくれ」
金子は呟くと、泡を吹いてその場に崩れた。気絶したようだ。
「姉さん!」
少女は奈々子にほほ笑みかけると、扉のところに立っているマリカを見た。
暖かい目をしている、と思った。
少女は窓の下を指さしている。
「花壇……?」
少女は肯定するように薄く笑う。次の瞬間、姿が闇にかき消え、金縛りがとけた。
どのくらい、呆然としていただろう。
「信じられない……」
横で圭吾が呟いた。
そうね、私も信じられないわ、と思いつつ見ると、圭吾は電磁波測定器に釘づけになっている。
「突然ガラスが割れてびっくりしたね。本物の幽霊が割ったのかもしれないよ? ほら見て、すごい電磁波だ、八ボルト・パー・メートルもある!」
「あんた、まさか見えなかったの?」
「なにが?」
きょとんとしている。圭吾にはとことん、霊を見る素質がないらしい。
*
その後、金子は逮捕された。
幽霊が花壇を指した、と警察に伝えると、かなり不審がられたが、調査してくれた。その結果、白骨遺体が見つかったのだった。
睦子は自分の居場所を伝えてきたのだ。
「ずっと三年棟の近く――金子の近くに居たのね。もっと早く、化けて出てきてやれば良かったのに」
マリカはそこが少し不満だ。
コンビニの前に座って、スプーンですくったアイスを口に放り込む。
「まだ金子先生を好きだったんじゃないの?」
圭吾が、ペットボトルのお茶を飲みながらしんみり言った。
「殺されたのに? 納得できないわ」
「だって金子先生、花壇にポピーを植えて世話してたんだろ? ポピーを通して、睦子さんを愛でてたんじゃない?」
「殺されてちゃ、元も子もないけどね」
「いいじゃないか。妹のピンチには化けて出てきてくれたんだし。奈々子さんが自覚している以上に、あの姉妹には絆があったんだと思うよ」
「ま、そうね。今にして思えば、金子先生が土中に埋めたという指輪が、草に押し上げられていたのにも、睦子さんの念を感じるわ」
しばらく沈黙が続いた。
天を仰ぐと、太陽に照らされた巨大な入道雲が光っている。
いかにも青春って感じ、と思った瞬間、いいアイディアが浮かんだ。
「ねぇカピバラ、今回はあんたのおかげで助かったわ。お礼に、夏休みに入ったらデートしたげよか?」
圭吾はきょとんとし、それから胡散くさそうな表情に転じた。
「なんで、デートがお礼になるのさ」
「だってあんた、私のこと好きでしょ。顔が赤くなってたし、目をそらしたじゃん! 一組の教室を調査した時にさ」
「ああ、藤井さんが『心霊現象を切り捨ててしまったら、新しい発見を逃しちゃうかもしれない』って話をした時だろ? アレ僕、感動したんだよ。こんな僕のことを理解してくれるのは、死んだ母だけだと思ってたのに、藤井さんが、僕の考えとピタリと合うことを言ったから。顔が赤かったのはそのせい」
「は? じゃあ目を逸らしたのは?」
「怖くなったから。……母と話すためにユーレイ電話を作りたいのに、藤井さんが僕のことを理解してくれたら、ユーレイ電話、完成しなくてもいいって思っちゃいそうだと思って。――だから、恋とかじゃあ全然ないから!」
マリカはムスッとした。無駄に失恋した気分だ。
「じゃあデートしないから、早く幽霊を科学的に解明しなさいよね。幽霊の原理がわかれば、私には本当に怖いものがなくなるんだから!」
「うん」
「……あんたは変わった奴だから、この先も否定されたり批難されたりすると思うけどさ」
圭吾はムッとした。
「やなこと言うね」
「でもそれでも、自分の考えを発信した方がいい。あんたは面白いし、あんたの姿勢は、誰かにポジティブな影響を与える気がする」
圭吾は目を見開いて、それから赤くなってうつむいた。
「……やっぱ藤井さん、変わってるよ」
だから、そのリアクションやめな、とツッコミつつ、マリカは言葉を継ぐ。
「私にも手伝わせて欲しい。新聞部としてインタビューさせて」
言葉にした瞬間、ああ、私はこういうことに人生を使いたいんだ、と気づいた。
入道雲のそびえるこの濃い青空の下で、私たちはひしめくように生きている。
ひとりひとりが、いろんな色の世界を抱えてる。あの色とりどりのポピーよりも、もっと多様な世界だ。
摩擦もあるし、どうしても理解できないこと、理解してもらえないこともある。
けれど誰かの世界が、別の誰かの世界を輝かせることだってある。
だから、生きているうちに、自分の世界をさらけ出したほうが、いいと思うのだ。
私は記者になって、たくさんの人の想いを発信していきたい。
そうすれば私たちの世界は、いっそう輝いていくはずだから。
了
参考文献:NHK取材班 梅原勇樹、苅田章 「NHKスペシャル
超常現象 科学者たちの挑戦」 NHK出版 2014年
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